戦極日記。

生きててよかった。による歴史創作『戦極事変』の話や日記などなど。

アクスタ通販します

戦極事変」に登場する徳川家康石田三成のアクリルスタンドをつくりました。

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徳川石田アクスタ - 戦極万屋 - BOOTH

 

サイズは80mm×80mmほど。50mmじゃ小さすぎる気がしてこのサイズにしましたが、予想以上に存在感のある代物になりました。

グロス加工にも初挑戦…!

角度を変えるとそれぞれ葵の紋と大一大万大吉の旗印が見えるようになっています。かわちい

 

ご興味のある方よければお手元に。

笹。

七夕の日なので。

描きました笹の才蔵。

戦場で笹を背負って戦った可児才蔵。

理由は討ち取る首が多すぎて腰に抱えることができなかったため。討ち取った首に笹の葉を咥えさせることで、自身の戦功を一目でわかるようにしたんだとか。

笹(ささ)と酒(ささ)をかけて、討ち取った相手への最後の手向けとする説もあるそうです。

 

最近、猛烈に暑い日が続きますが、いろいろ頑張りましょー。

鳥羽城跡。

個人サイトより。

2022年2月鳥羽城跡登城の記事の転載です。

鳥羽城は志摩国の海賊・九鬼嘉隆の本拠地でもありました。

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 現在、鳥羽城周辺は埋め立てられ水族館などで賑わっていますが、当時は海に囲まれていて三の丸の大手門が海側に突出して作られており、そのまま舟を寄せることもできて、まさに「水軍の城」と言える構造をしていました。大手門が海に面しているのは全国でも珍しく鳥羽城だけなんだとか。

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大手門から広がる七段石垣は圧巻の眺めでした。

(七段石垣は戦後の『城山を美しくみせたいプロジェクト』で作られたもので当時の遺構や再現ではありません)

上から下を覗くとちょっと怖いです。

 

本丸跡から眺めた鳥羽の海。奥に見えるのが九鬼嘉隆関ケ原合戦後に自刃した答志島です。

 

九鬼嘉隆と息子の守隆は、真田家同様に父子で西軍・東軍と袂を分かちました。

東西に分かれた理由、真田父子に関しては「真田家存続のため」が通説でしたが、近年では信之の舅は東軍総大将・徳川家康重臣本多忠勝であり、対して信繁の舅は西軍に加担していた大谷吉継であったため「姻戚関係を重視した結果」東西に分かれざるをえなかったことが要因だと有力視されています。

では九鬼嘉隆はなぜ西軍に属したのか…、

実は結構単純なことで、嘉隆は家康と相容れない関係だったのです。

 

嘉隆が家康を好きになれないのには理由があり、

伊勢の岩出城城主の稲葉道通は、豊臣秀吉が嘉隆に恩賞を与えようとした際に反対したり、九鬼氏に対して「通航税」の支払いを拒否したりと、嘉隆との関係は微妙なものでした。

 (海賊(=水軍)の縄張りである海域を通過する際には必ず関所で通行税を支払うのが当たり前でした。その代わり海賊は航海の安全を保障するのです)

 嘉隆は何度も家康に訴えたのですが聞く耳を持たず、それどころか家康は道通の主張が正しいものだとし、以降嘉隆は家康に対して不信感を募らせていました。

 

そんなこんなで九鬼父子は敵同士に分かれてしまったわけですが…

当時、嘉隆はすでに家督を守隆に譲り隠居していましたが、関ケ原合戦では鳥羽城を奪い立て籠もり、会津から引き返してきた守隆と戦闘が開始されました。守隆の軍には徳川から目付け役がついており、戦わざるをえなかったのです。

ただ鳥羽城方は守隆軍からの攻撃に空砲で応戦していたようです。結果、関ケ原合戦は半日で終わり、九鬼父子のもとにも西軍敗戦の報が届きます。嘉隆は素直に鳥羽城を明け渡し、答志島へ逃走、身を隠しました。

 

戦後、守隆は自分の戦功の代わりに父・嘉隆の助命嘆願に努め、ついに家康から許しを得ることが出来ましたが、その報が届く直前に嘉隆は家臣・豊田五郎右衛門に促され答志島で自刃していました。これに守隆は酷く立腹し、五郎右衛門を鋸挽きで斬首のうえ晒し首に。守隆の怒りがひしひしと伝わってきます。

 

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本丸周辺の野面積みの石垣。

こちらは九鬼嘉隆が城主の時代に築かれたものではないか、とされているようです。

延宝8年に作成された鳥羽城の財産目録に、城内の建物について詳しく書かれており、「一 天守三重 内壱重、五間に六間」とあり、3層の天守であったことが分かります。また、屋根の構造から「望楼型」と呼ばれる古い型式の天守であったと推定されています。

鳥羽城跡に建物はありませんが、発掘調査の結果を記した看板などもあって十分学び、楽しめました。

 

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鳥羽城跡地には「旧鳥羽小学校校舎」があります。

1929-2008まで小学校として活躍し、2010年には登録有形文化財に登録されました。

旧校舎をよく見てみると海側が黒く、陸側が白く塗装されているように見えます。

鳥羽城も海の魚を守るため、海側を黒く、陸側を白く塗るという工夫が施されていたようで、「二色城」とも呼ばれていました。もしかするとこの旧校舎も二色城に由来しているのかも…?

 
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九鬼嘉隆の最期まで海に寄り添い、自分の死に場所は海だと言わんばかりの生きざまは陸の戦国武将とはまた違った味がありますね。

 私も海が好きなので、鳥羽の地に立って彼が見ていたであろう風景を見ることができてとても良い経験でした。

 

旧鳥羽小学校の生徒たちは本丸跡をグラウンドに使っていたんだって!いいな~

 
 
 

佐和山城趾。

個人サイトより。

2021年11月佐和山城趾登城の記事の転載です。

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麓には五層の佐和山城天守の模型があります。

佐和山城は1600年に城主・石田三成関ケ原の戦いに敗れたことで、徳川方の攻撃を受け落城しました。

 

その後は徳川四天王の一人・井伊直政が入城しましたが、大坂方の牽制のため新たに彦根城築城に取り掛かり、嫡子直継の代で完成した彦根城に移ったため、佐和山城は廃城となりました。

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現存する石垣。

佐和山城の石垣は麓にある清涼寺や龍潭寺、また彦根城などに転用されましたが、それ以外は壊されてしまったため城は現存していません。残っているのは石垣などのわずかな遺構のみです。

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分かりにくいですが

堀になっていて、攻めてくる敵を上から攻撃できます。

 

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頂上からは近江八景の琵琶湖や関ケ原合戦後に石田三成が敗走した伊吹山、そして彦根城が見渡せます。

佐和山城趾までの道のりは大変険しく…、基本整備されていない道を急勾配な山道を歩きます。

あとかなりの確率でサルに遭遇するみたいです

(奇跡的に私が登っているときには見かけませんでした)

登城される方はお気をつけて‼️

 

現存しているお城の圧倒的な出で立ちを見るのも楽しいですが、わずかに残る遺構を見つけてそれを想いを馳せるのもまた良い体験だなと改めて感じました。

 

最後に、顕彰会により建てられたちょっとイケメンすぎる気もする石田三成公像を載せておきます。

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おしまい